『シベリアのバイオリン―コムソモリスク第二収容所の奇跡』

 

収容所の固い蚕棚のようなベッドで毛布にくるまって眠る夜、そこはほとんど音のない世界。わずかに聞こえてくるのは風の音と狼の遠吠えくらいだ。

「バイオリンを弾きたい!

音楽を聴きたい!」

一郎は激しく音楽に飢えた。         

 

(『シベリアのバイオリン』窪田由佳子著/地湧社 52ページ)

 

満州でむかえた敗戦、シベリア抑留。極寒の収容所。極限状態の孤独。寂寥。そんななかにあって20代になったばかりの窪田一郎は、小学生のときから愛してやまないバイオリンの製作にとりかかることを決意する。夜な夜な宿舎を抜け出して、人目につかない作業小屋に通い、配給される煙草と引き換えで風呂当番に用意してもらった太い白樺と松を、拾って隠し持つ折れた鋸刃を研いでつくった刃物で削り、鋼鉄線や電線を弦に、馬の尻尾を弓に張り、バイオリンは半年かかって完成した。その音色は収容所の人々を魅了し、このバイオリンをきっかけにコムソモリスク第二収容所楽団と劇団が生まれ、その演奏はやがてラジオに乗って日本にも届くことになる。

 

実話にもとづくこの物語を紡いだ窪田由佳子は音楽家であり、バイオリンをつくった窪田一郎の娘である。子どもの頃、父から聞かされたシベリアでの出来事が、何十年の時を経て「忘れてはならない世界史上の事実として浮かび上がってきた」ことから、父の軌跡をたどりはじめ、一郎とともに音楽活動、演劇活動をしていた人たちと出会い、シベリア抑留問題を深く深く知っていく。そうして、本書が書き上げられた。

 

敗戦後の8月から、長い人は11年に及んだというシベリア抑留問題。

一郎は1948年10月に帰国がかなった。

そして帰国後、満州で出会い思い続けていた女性、とし子との奇跡的な再会を果たすのだが……。

一郎が言い続けていた言葉は、「どんな理由があっても戦争だけはやってはいけない!」だった。著者同様、私もこの言葉を重く、重く受け止めたいと思った。

 

最後に一郎の音楽愛、バイオリン愛と満州で入隊するいきさつを紹介しておきたい。

1937年、楽器で音楽を奏でることが大好きだった窪田一郎は、友だちの家で聴いたレコードでバイオリンと出会う。その魅力にとりつかれた一郎は、こづかいをためて独習書や『バイオリン』といった本を買い、なめるように繰り返し読んだ。そして、『バイオリン』のはじめに載っていた分解写真を見ながら、木の箱でバイオリンを手作りする。それを見た父親が古道具屋に一郎を連れて行き、飴色に光るバイオリンが一郎のもとにやってくることとなった。それからの一郎は、寝てもさめてもバイオリン。校舎の裏でも家でも夢中になって練習をした。放課後の課外活動をさぼってバイオリンを弾いていることが見つかり先輩に殴られても、練習をやめることはなかった。

しかし、戦争中の非常時にバイオリンを弾いて遊んでいるとは国賊かという近所の人たちの声により、次第に肩身が狭くなっていく。「思いっきりバイオリンを弾ける所へ行きたい」という思いを募らせた一郎は、両親の反対を押し切って満州の公立学校「観象職員訓練所」への進学を決める。1942年、一郎中学五年生、17歳の冬だった。

行ってみれば満州での生活は厳しく、バイオリンを思いっきり弾く夢は日曜日にしかかなわなかったが、それでも音楽好きな教官との出会いがあったり、バイオリンの先生にレッスンを受けたり、訓練所の助手として働く女性・とし子との穏やかな交流のなかでほのかな恋心を抱いたり、そのとし子からも思いを寄せられるという日々を送っていた。

その日々が1944年10月、赤紙によって断ち切られる。持って行くことのできないバイオリンを先生に預け、とし子から渡された一郎への思いをしたためた詩がびっしり書き込まれたノートを胸に、一九歳の一郎は最年少兵として関東軍に入隊し、気象班に所属した。そして敗戦後、ソ連軍の捕虜にされ、「ダモイ、トーキョウ(東京に帰してやる)」と言われながらコムソモリスク第二収容所へ連行されたのだった。

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